現役時代に知らなかったことは多かれど、一番悔やまれるのはいわゆるサル学である。
“京大の、独自性に溢れる世界的な成果”という評価はぼんくらな私の耳にも入っていた。
しかし、もう研究し尽くされた学問だと思い込んでいた。
だから定年後の暇な時間に関連本を読めばいいくらいに思っていた。
ところが、私の現役時代にも現在進行形で研究は進んでいた。
ボノボの集団に日本人研究者が出くわして「なんというセックス狂いのサルなんだ!」と驚いたのは1970年代だった(何の本で読んだか失念したが、思い出したら追記します)。
今や書店は生鮮品のみ、絶版もいっしょに眺められる図書館はいいね!
このサル学に出会ったのは、図書館の中である。
リタイヤする5年前までヘビースモーカだったこともあり、
図書館に足を踏み入れることは長らくなかった。
しかし55歳でタバコをすっぱりやめたおかげもあって、定年後は人並みに図書館に行った。
最初に行った時、とても新鮮な思いをしたことを忘れない。
ある分野に関して、もはや絶版になった書籍とそこそこの新刊が並んでいる。
書店では、絶版になった本は置いていない。ほとんどは新刊ばかり。
(今の出版社は経営が苦しくて新刊で出した直後に実質的に絶版になる本がほとんど)
なんだ、”家族の起源”は解明されているんじゃないか!
そして「類人猿学」と分類されている書棚に行くと、サル学創始者として当時の私でも名前を知っていた今西錦司氏の書籍から、最近の書籍までずらりと並んでいる。
そこで手に取ったのは、『父という余分なもの』(山際寿一著、1997年)だった。
いや~、面白かった!
タイトルに触発されて読み始めたのはもちろんだが、
なんと人類の家族がどうして生まれたかを解き明かしてくれていた。
そして人間以外のサル/類人猿には”父”という概念はないことを。
そして人類の”父”なるものは、母そして子に選ばれて初めて認められる存在であることを。
人類初期に家族をもたらした必然性はもはや様変わりしているが・・・
しかし現代において、”家族”が大きなストレス源になっている人は珍しくない。
(サル学が明らかにしてくれた)家族が必然的に生まれた当時の環境(脚注)とは、
現代はあまりに様変わりしている。
家族を前提とした人間の生活は、もはや不整合を起こしている・・・。
”家族”については、また稿を改めて書いてみたい・・・。
注)なぜ人類は家族という単位で暮らし、父という存在が生まれたのか。正確ではないかもしれないが、サル学が説くことを以下のように理解している。
ヒトが二足歩行して熱帯雨林からサバンナに出てきたとき、ヒトはとても弱い存在だった。
素手で戦っても強くない。足が速いわけでもない。
そのため、肉食獣に殺される確率が高かった。特に子どもが。
これに対応して生まれた戦略は多産だった。
ただし直立歩行もあって、一度の出産で多くの子どもを生み落とすとはできなかった。
このため、出産のピッチを短くする多産の仕組みが必要だった。
それを実現したのが、受胎から1年足らずで出産し、母親は産後すぐに再び妊娠できる状態になる形態だ。
1年もしないうちに、母は乳幼児から離れることもできる。
(類人猿の母が数年は子どもを抱いたままで生活するのとは大違いだという)
こうして人類初期の女性は、妊娠しているか乳幼児を抱えた状態を長い間繰り返すことになる。
そうした動くことも難しい乳幼児と母親が生存するための存在として発生したのが”父”だった。
利害得失を超えて、無償で特定の母子に食料をもたらす存在である。
そしてつまりは家族が生まれ、相互に協力しあう地域コミュニテイも成立する。
こうした社会の仕組みを必然たらしめたのは女性の生理だという。
ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、人類のそれぞれの独特の社会を必然的に作っている
根源の仕組みは女性の生理だという。
セックスを隠し、食を共にするという人類の特徴も、ここから生まれた。
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