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2023/07/14

挨拶の意味?! ボス猿登場の条件!

「きちんと挨拶しましょう」---昔も今も、子どもたちはこう教わる。
「私はきちんとした人です。敵ではありません」というシグナルを相手に示す。

ただ、挨拶はそういう意味だけではないことを
京都大学が拓いた、いわゆるサル学が教えてくれた。
どちらが上位でどちらが下位かを、いちいち喧嘩せずに確認する手段でもあるのだと。
確かに、出会うたびに血みどろになっていてはかなわない。
合理的な方法だ。
特に競争が激しいチンパンジーの世界では、いろんな挨拶があるらしい。
(姿勢を低くして手の甲にキスする仕草さえあるらしい)

頭を下げない挨拶

そこで気付く。あぁ、人間の挨拶にもそれがある!
子どもたちが教わる挨拶はおおむね頭を下げる。
ところが頭を引き上げる仕草で挨拶する人間がいるじゃないか。
たとえば”社長”である。
たとえば往年の映画「社長シリーズ」では、
なにかとゴマをする役の、三木のり平がぺこぺこすると、
社長である森繁久彌は「おぅ」という感じで顎を引くような挨拶を返す。
どちらが偉いかということを確認する儀式が挨拶だったのだ。

面白くなる。会社員時代を思い出す。
若い頃はどちらの案が合理的かを喧々諤々議論し、でも頭は低く”いい奴”だったのに、
50歳前後あたりだろうか、離れたセクションでけっこう肩書が付くころから、
「どうしてあいつはあんなになっちゃったんだ??」と思う輩が出てくる。

人と目を合わせようとしない。なんだか偉そうに挨拶する。
仕事の話をしに行っても「それいいね、やろう!」というテンポにならず、
ややこしい話になる。場合によっては、嘘をつくようになる。
・・・どうやら、自分のボスの意に沿わないことは一切しない人物になっている。
それが、当然のことと思っているらしい。
「・・・おかしいなぁ、人格が変わっちゃった」、と思わせる。

こうした変貌を遂げる人物は珍しくないのだと思う。
要は定年が見えて来る年齢になり、たとえば役員で残ることを目指して、
ボスに気に入られようとゴマをする、あるいは小ボス間の勢力争いに参加する。
社長シリーズでいけば、 若き硬骨漢だった小林桂樹が、
あるときからゴマすり三木のり平に変貌するようなものである。

ボス猿は自然の中では生まれない

でも歳をとってから変貌するのはなぜか。
先のコースが見えてきて、
昇進するために行動する以外の選択がなくなったと思わせるころからの変貌だ。
第一に優先するのは「ボスに気に入られる」ことになる。
若い頃の合理性追求の姿勢は消えてなくなる。
要はボスの配下に身を置いたわけだ。

ここで再び、サル学は面白い知見を与えてくれる。
ボス猿という言い方は確かに初期のサル学で使っていたようだ。
しかし、もはやボス猿という言葉は死語なのだという。
当初は幸島などの日本猿を餌付けし、ボスのいる集団を観測するところからサル学は始まった。しかし間もなく、日本中、サルが生息するところに出向いて観測するようになる。
そして伊沢紘生氏が餌付けされていない日本猿を長年観察し、
自然界にボス猿はいないことを
1982年刊行の著作『ニホンザルの生態』で明らかにした。
実は餌付けされ、餌を獲得するために激烈な競争がある場合にはボス猿に見える存在が生まれるが、餌の獲得にそれほど苦労しない自然界では、ボス猿はいないという(この発見過程は、『サル学の現在』(立花隆著、1996年発行)のpp.111-142参照。
(注)サル学ではもはやボス猿という言葉は使っていないが、
一番力の強いオス猿をアルファ・メイルと呼んだりしている。

これで、中年になるとゴマすりに変貌する輩が出てくるわけが解けた!
先のポストが見えてきて、そこを目指すしか選択肢がないように見える状態、
ここではボスを喜ばせれば”エサ”をもらえるが、
ボスに逆らえば権力集団から見放されることになる。
つまりは餌付けされた状態になり、ボスと子分の関係が初めて生まれるわけだ。
若い頃は自然の中で自由に合理性を追求していた輩も、
こうして餌付けされ、ボス集団にからめとられてしまうわけだ。
何も会社に限った話ではない。
たとえば奈良での演説中に狙撃されて亡くなった日本の首相と彼を取り巻く政治家達。
もちろんヤクザの世界が成り立つのもこういうわけだろう。
いずれも餌付けされてしまった集団だ。

さらに、定年延長者には挨拶できない若き役員たちも・・・

ここまで書いたらもう少し書いてしまいたくなった。
昨今は定年が65歳とか70歳まで延長されることになってきた。
ただし役職はなくなって給与は大幅に減る。
そしてこうして会社に残った人が、
上記のような餌付け環境を生き抜いて役員ポストを勝ち取ったような年下の上役と出会ったらどういうことになるか。
格下に頭を下げる挨拶はしなくなった若き役員が、
かつての上司だったりする定年延長者に会ったとき、
頭を引き上げる挨拶をする人もいるだろう。頭を低くした挨拶ができる人もいるだろう。
でも中には、どちらの挨拶も苦しくて、気付かない振りをして通り過ぎる人がいる。
目を泳がして無視されるー--年長者側は気持ちがよいわけはない。
やはり、定年延長に乗るのは、面白くなさそうだ。

※記事一覧(リンク付き)はこちら。 予定記事のタイトルも入っています。

2023/07/04

『父という余分なもの』

現役時代に知らなかったことは多かれど、一番悔やまれるのはいわゆるサル学である。
“京大の、独自性に溢れる世界的な成果”という評価はぼんくらな私の耳にも入っていた。
しかし、もう研究し尽くされた学問だと思い込んでいた。
だから定年後の暇な時間に関連本を読めばいいくらいに思っていた。
ところが、私の現役時代にも現在進行形で研究は進んでいた。
ボノボの集団に日本人研究者が出くわして「なんというセックス狂いのサルなんだ!」と驚いたのは1970年代だった(何の本で読んだか失念したが、思い出したら追記します)。

今や書店は生鮮品のみ、絶版もいっしょに眺められる図書館はいいね!

このサル学に出会ったのは、図書館の中である。
リタイヤする5年前までヘビースモーカだったこともあり、
図書館に足を踏み入れることは長らくなかった。
しかし55歳でタバコをすっぱりやめたおかげもあって、定年後は人並みに図書館に行った。
最初に行った時、とても新鮮な思いをしたことを忘れない。
ある分野に関して、もはや絶版になった書籍とそこそこの新刊が並んでいる。
書店では、絶版になった本は置いていない。ほとんどは新刊ばかり。
(今の出版社は経営が苦しくて新刊で出した直後に実質的に絶版になる本がほとんど)

なんだ、”家族の起源”は解明されているんじゃないか!

そして「類人猿学」と分類されている書棚に行くと、サル学創始者として当時の私でも名前を知っていた今西錦司氏の書籍から、最近の書籍までずらりと並んでいる。
そこで手に取ったのは、『父という余分なもの』(山際寿一著、1997年)だった。

いや~、面白かった!
タイトルに触発されて読み始めたのはもちろんだが、
なんと人類の家族がどうして生まれたかを解き明かしてくれていた。
そして人間以外のサル/類人猿には”父”という概念はないことを。
そして人類の”父”なるものは、母そして子に選ばれて初めて認められる存在であることを。

人類初期に家族をもたらした必然性はもはや様変わりしているが・・・

しかし現代において、”家族”が大きなストレス源になっている人は珍しくない。
(サル学が明らかにしてくれた)家族が必然的に生まれた当時の環境(脚注)とは、
現代はあまりに様変わりしている。
家族を前提とした人間の生活は、もはや不整合を起こしている・・・。
”家族”については、また稿を改めて書いてみたい・・・。

注)なぜ人類は家族という単位で暮らし、父という存在が生まれたのか。正確ではないかもしれないが、サル学が説くことを以下のように理解している。
ヒトが二足歩行して熱帯雨林からサバンナに出てきたとき、ヒトはとても弱い存在だった。
素手で戦っても強くない。足が速いわけでもない。
そのため、肉食獣に殺される確率が高かった。特に子どもが。
これに対応して生まれた戦略は多産だった。
ただし直立歩行もあって、一度の出産で多くの子どもを生み落とすとはできなかった。
このため、出産のピッチを短くする多産の仕組みが必要だった。
それを実現したのが、受胎から1年足らずで出産し、母親は産後すぐに再び妊娠できる状態になる形態だ。
1年もしないうちに、母は乳幼児から離れることもできる。
(類人猿の母が数年は子どもを抱いたままで生活するのとは大違いだという)
こうして人類初期の女性は、妊娠しているか乳幼児を抱えた状態を長い間繰り返すことになる。
そうした動くことも難しい乳幼児と母親が生存するための存在として発生したのが”父”だった。
利害得失を超えて、無償で特定の母子に食料をもたらす存在である。
そしてつまりは家族が生まれ、相互に協力しあう地域コミュニテイも成立する。
こうした社会の仕組みを必然たらしめたのは女性の生理だという。
ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、人類のそれぞれの独特の社会を必然的に作っている
根源の仕組みは女性の生理だという。
セックスを隠し、食を共にするという人類の特徴も、ここから生まれた。






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2023/06/18

”ミラーニューロン”のノーベル賞はいつ?<第1稿>

仕事の忙しさにかまけて気が付かないことが!


「仕事の忙しさにかまけて、世の中で何が起きているか目に入っていなかった!」
と後悔することがある。


その一つが”ミラーニューロン”だ。
ミラーニューロンはイタリアはパルマ大学のジャコモ・リッツォラッティ氏らによって、
1996年に発見されたという。
ところが私が気が付いたのは、『ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』 (マルコ イアコボーニ著, 塩原通緒翻訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
という本を読んだ2010年末のことである(脚注)。
15年も遅れて気が付いたことになる。
学会に登場したばかりの1996年に気付くことは難しかったのかもしれないが、
この1996年に私は40歳代になったばかり、
最も忙しく働いていた時期であることは間違いない。
通勤電車の中でも仕事をしていた・・・。
仕事に関係すること以外の出来事に関して、アンテナを張っていなかった。
一方、この本を読んだ時期の私はいわゆる定年間近・確かに時間的に余裕があった。
リタイア後は、こうした「見逃していたもの」を発見するのも大きな楽しみになる。

他者の意図を感知するメカニズム


ミラーニューロンは様々な働きをするようだが、私にとって最も興味深いのは、
我々が他者の意図をどのように察知するか、そのメカニズムを説明してくれたことである。
ミラーニューロンは物まね細胞とも呼ばれるが、
ミラーニューロンのおかげで人は他者の動きを我が身の動きとして”脳内で模倣”し、
その我が身の動きの感覚を通して相手の意図を理解するのだという。
右手を上げるという動きをロボットが行ってもその意図を察することはできない。
しかし目前に立つ人が右手を上げようとするその瞬間に、
殴りかかろうとしているのか、握手しようとしているのか、賛成の挙手をしようとしているのか、網棚の荷物をとりにいくのか、といった動きの意図を理解する。
確かにそのために、我が身中の筋肉の反応を脳内で模倣しているのを感じることができる。

対戦型スポーツの楽しさ=相手の意図を察知して動く


私は幼い頃からスポーツが大好きだった。しかし勝つことは下手だった。
世の中ではスポーツをすることイコール強くなることを求められる。
昨今の運動部などでは厳しい指導の行き過ぎは抑えられるようになったが、
褒めて伸ばすという手法も試合で勝つため、強くなるための指導である。
勝って嬉し涙を流す選手をほめたたえる。
団体スポーツでは「国を背負って戦う」ような姿勢が称えられる。
でも、スポーツ、ゲーム、プレイ・・・”遊び”に通じるはずだ。
では遊びやスポーツはなぜ楽しいのか。
勝つことが苦手だからこんなことを考えるのかもしれないが、
ずっと気になっていた。
この疑問に、ミラーニューロンの説明が応えてくれた。
詳しくは稿を改めるが、結論だけを書くと、対戦型スポーツは相互に相手の意図を察知しながら反応するのが楽しいに違いない。楽しい会話と同じ構造。
複雑なフェイントの掛け合いは相互のコミュニケーションを生み、
それが楽しいに違いない。
これをテニスで試した(詳しくは別稿で)。

ノーベル賞をとらないかなぁ


ただしこのミラーニューロン、世紀の発見と称賛されたようだが、
残念ながらその後の研究の動きが聞こえてこない。
懐疑的な見解もあるようだ。
私的にはノーベル賞を受賞してくれないかなぁと思う。
上記のようなスポーツの楽しさを共有するには、くどくど説明しても足りないことが多い。
ミラーニューロンのメカニズムが一般的な知識として広がれば、
「ニッポン、ニッポン!」と連呼してばかりのオリンピックの中継放送も
大きく変わるに違いないのだが。
(初稿は2023年6月18日)

注)発見者ご本人の書作は『ミラーニューロン』(ジャコモ ・リゾラッティ (著), コラド・シニガリア (著), 茂木健一郎 (監修, 読み手), 柴田裕之 (翻訳)、‎ 紀伊國屋書店発行)である。ただこの本は、ちょっと読みにくかった。翻訳と監修が粗い・・・。編集者のせいかな・・・

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