2023/07/30

「非正規労働者」という言葉を使い続けるなんて!

このブログを始めた理由のひとつは、
みんなが見えない振りをしていることが多くて、
これはやはり(届く範囲は置いておいても)発信しておかないと
悔やむことになるかもしれないということ。

その具体的な代表例は「非正規労働者」という言い方だ。
どこから説明すべきなのか・・・。
こんな言葉を使うべきではないと誰でも分かるはずなのに、
差別用語でしょう。
それなのに、政府も行政もマスコミも、
あまりにも無感覚に使い続けています。音頭をとっているかのように。

親が「非正規労働者」と呼ばれていると気付いた子どもは、どんな気持ちになるのか。

Change.orgはちょっと暴力的だなぁと思うこともあるのですが、
この話題がないのは変だと思い、投稿した。
でもこれだけだと声は集まらない。
そこでビラを作ってみた。

ただ、ビラを配るのはなかなか難しい。
学生運動も経験していないからビラ配りに慣れていない。
5枚くらい配ったところで止まっていました・・・。
それにしても・・・。


※記事一覧(リンク付き)はこちら。 予定記事のタイトルも入っています。

2023/07/14

挨拶の意味?! ボス猿登場の条件!

「きちんと挨拶しましょう」---昔も今も、子どもたちはこう教わる。
「私はきちんとした人です。敵ではありません」というシグナルを相手に示す。

ただ、挨拶はそういう意味だけではないことを
京都大学が拓いた、いわゆるサル学が教えてくれた。
どちらが上位でどちらが下位かを、いちいち喧嘩せずに確認する手段でもあるのだと。
確かに、出会うたびに血みどろになっていてはかなわない。
合理的な方法だ。
特に競争が激しいチンパンジーの世界では、いろんな挨拶があるらしい。
(姿勢を低くして手の甲にキスする仕草さえあるらしい)

頭を下げない挨拶

そこで気付く。あぁ、人間の挨拶にもそれがある!
子どもたちが教わる挨拶はおおむね頭を下げる。
ところが頭を引き上げる仕草で挨拶する人間がいるじゃないか。
たとえば”社長”である。
たとえば往年の映画「社長シリーズ」では、
なにかとゴマをする役の、三木のり平がぺこぺこすると、
社長である森繁久彌は「おぅ」という感じで顎を引くような挨拶を返す。
どちらが偉いかということを確認する儀式が挨拶だったのだ。

面白くなる。会社員時代を思い出す。
若い頃はどちらの案が合理的かを喧々諤々議論し、でも頭は低く”いい奴”だったのに、
50歳前後あたりだろうか、離れたセクションでけっこう肩書が付くころから、
「どうしてあいつはあんなになっちゃったんだ??」と思う輩が出てくる。

人と目を合わせようとしない。なんだか偉そうに挨拶する。
仕事の話をしに行っても「それいいね、やろう!」というテンポにならず、
ややこしい話になる。場合によっては、嘘をつくようになる。
・・・どうやら、自分のボスの意に沿わないことは一切しない人物になっている。
それが、当然のことと思っているらしい。
「・・・おかしいなぁ、人格が変わっちゃった」、と思わせる。

こうした変貌を遂げる人物は珍しくないのだと思う。
要は定年が見えて来る年齢になり、たとえば役員で残ることを目指して、
ボスに気に入られようとゴマをする、あるいは小ボス間の勢力争いに参加する。
社長シリーズでいけば、 若き硬骨漢だった小林桂樹が、
あるときからゴマすり三木のり平に変貌するようなものである。

ボス猿は自然の中では生まれない

でも歳をとってから変貌するのはなぜか。
先のコースが見えてきて、
昇進するために行動する以外の選択がなくなったと思わせるころからの変貌だ。
第一に優先するのは「ボスに気に入られる」ことになる。
若い頃の合理性追求の姿勢は消えてなくなる。
要はボスの配下に身を置いたわけだ。

ここで再び、サル学は面白い知見を与えてくれる。
ボス猿という言い方は確かに初期のサル学で使っていたようだ。
しかし、もはやボス猿という言葉は死語なのだという。
当初は幸島などの日本猿を餌付けし、ボスのいる集団を観測するところからサル学は始まった。しかし間もなく、日本中、サルが生息するところに出向いて観測するようになる。
そして伊沢紘生氏が餌付けされていない日本猿を長年観察し、
自然界にボス猿はいないことを
1982年刊行の著作『ニホンザルの生態』で明らかにした。
実は餌付けされ、餌を獲得するために激烈な競争がある場合にはボス猿に見える存在が生まれるが、餌の獲得にそれほど苦労しない自然界では、ボス猿はいないという(この発見過程は、『サル学の現在』(立花隆著、1996年発行)のpp.111-142参照。
(注)サル学ではもはやボス猿という言葉は使っていないが、
一番力の強いオス猿をアルファ・メイルと呼んだりしている。

これで、中年になるとゴマすりに変貌する輩が出てくるわけが解けた!
先のポストが見えてきて、そこを目指すしか選択肢がないように見える状態、
ここではボスを喜ばせれば”エサ”をもらえるが、
ボスに逆らえば権力集団から見放されることになる。
つまりは餌付けされた状態になり、ボスと子分の関係が初めて生まれるわけだ。
若い頃は自然の中で自由に合理性を追求していた輩も、
こうして餌付けされ、ボス集団にからめとられてしまうわけだ。
何も会社に限った話ではない。
たとえば奈良での演説中に狙撃されて亡くなった日本の首相と彼を取り巻く政治家達。
もちろんヤクザの世界が成り立つのもこういうわけだろう。
いずれも餌付けされてしまった集団だ。

さらに、定年延長者には挨拶できない若き役員たちも・・・

ここまで書いたらもう少し書いてしまいたくなった。
昨今は定年が65歳とか70歳まで延長されることになってきた。
ただし役職はなくなって給与は大幅に減る。
そしてこうして会社に残った人が、
上記のような餌付け環境を生き抜いて役員ポストを勝ち取ったような年下の上役と出会ったらどういうことになるか。
格下に頭を下げる挨拶はしなくなった若き役員が、
かつての上司だったりする定年延長者に会ったとき、
頭を引き上げる挨拶をする人もいるだろう。頭を低くした挨拶ができる人もいるだろう。
でも中には、どちらの挨拶も苦しくて、気付かない振りをして通り過ぎる人がいる。
目を泳がして無視されるー--年長者側は気持ちがよいわけはない。
やはり、定年延長に乗るのは、面白くなさそうだ。

※記事一覧(リンク付き)はこちら。 予定記事のタイトルも入っています。

2023/07/04

AIに「仕事」「家族」について問いかけてみた

はやりの「生成AI」に、「仕事」および「家族」について問いかけてみた。
けっこう答えてくれる。じっと自分ひとりで考えているよりは、論点を広げてくれる気はする。

ヒトの仕事がなくなったとき、持続可能で健全な社会を確保する方策は


問い(以下略)ーヒトにとって、仕事とは何か。仕事をする必要がなくなった人類の社会はどうなるのだろうか。

AI(以下略)●仕事とは、人間が生活する上で必要な物資やサービスを提供するための手段であり、自己実現や社会貢献の場でもあります。現代社会では、生活を維持し自己実現を図るために、大抵の人々にとって仕事は必要不可欠な要素となっています。

人類が仕事をすることをやめた場合、社会は大きく変化することになるでしょう。自動化やロボット技術が発展している今、人々が仕事をしなくても暮らしていくことが可能になるかもしれません。そうなると、私たちはより充実した生活を送るために自己啓発や趣味、芸術活動などに時間を費やすことができるようになるかもしれません。

ただし、社会が完全に仕事をしなくても暮らせるようになれば、一部の人々は怠惰になったり、価値観や目的意識を失う可能性もあります。また、社会経済的な問題や貧困などの問題が解決されるわけではありません。仕事がなくなる変化が訪れた場合でも、社会が持続可能でかつ健全であることを確保するために、新たな社会システムの構築が必要となるでしょう。

自己実現をサポートする社会システムなんて、あり得るのだろうか。

自己実現をサポートする社会システムは、必ずしも完全な形で存在しないかもしれませんが、現在の社会では、教育やキャリア支援などの手段が存在しており、個人が自己実現に向けた取り組みをすることができる環境が整っています。また、福利厚生や労働時間の短縮など、労働者がより良い生活を送るための制度が整備されている国もあります。ただし、社会システムが完全ではないため、個々人が自己実現に向けた努力を積極的に行う必要があると考えられます。

家族の崩壊は、新たな多様化をもたらす?


ありがとう。次に、「家族」はどうだろうか。ヒトが類人猿から派生し独自の発展を遂げるうえで、利害関係を超える関係を結ぶ家族は大きく寄与した。しかし今や、家族はストレスを生み、葛藤に苦しむ人が多い。
また家族が集まった親族のコミュニティや、近隣の地域コミュニティはほとんど崩壊している今、家族が崩壊しないわけはないのではないか。

家族は、人間にとって重要な社会的結合の一つであり、心理的な安定や生活の支えとなるものです。しかしながら、現在の社会においては、家族も多様化・高度化が進んでおり、それに伴い家族間のストレスや葛藤が生じることもあります。

また、地域コミュニティの崩壊や社会の急速な変化が、家族の関係にも影響を与えることがあります。例えば、社会や経済の変化により、家族の生活環境や経済的状況が大きく変わったり、家族の機能や役割が変化したりすることがあります。これにより、家族内のコミュニケーションがうまくいかなくなることもあるかもしれません。

ただし、家族が完全に崩壊するわけではありません。家族によって提供される支えや愛情は、依然として人間にとって不可欠なものであり、家族の関係を再構築するための支援が必要な場合には、専門家や支援機関のサポートが利用できることもあります。また、近隣や地域の社会資源を活用することによって、家族とのコミュニケーションを促進することもできます。

そうだねぇ。「家族が完全に崩壊するわけではない」というのは真実でしょう。でもそれは、遺伝子レベルにも組み込まれているために、家族が崩壊したときにもたらされるマイナス効果にヒトは耐えられないという意味ではないのか。家族崩壊の道に進んでいるが人類は家族なしに生き延びられる動物ではないから、すなわち人類は滅びるという文脈になるのではないか。

確かに、家族というのは人間にとってとても重要な存在です。遺伝子レベルでの家族関係や愛着関係は、精神的な健康や社会的支援に大きく影響を与えています。しかし、家族崩壊というのは単純に家族が存在しなくなることではなく、家族構造が多様化することを意味している場合もあります。例えば、パートナーシップや友人関係を家族として扱うような家族モデルが、現代社会において広がりつつあります。

ただし、家族の崩壊が人類の滅亡につながるかどうかは、複雑な問題です。人類の歴史を振り返ってみると、家族関係は多様であり、地域や文化に応じた様々な形態が存在してきました。また、人類は社会的生き物であり、文化的な進化や技術的な進歩によってさまざまな問題に対処することができます。そのため、家族という存在がなくなったとしても、人類が滅亡するわけではないでしょう。

イヤイヤ難しい問題ですがありがとう。

どういたしまして。もし他に何かお力になることがあれば、遠慮なくお聞きください
===============

う~ん、楽しく議論が噛み合うということにはならないですね・・・。なにが足りないんだろう。でもそれくらいでよいでしょ。


※記事一覧(リンク付き)はこちら。 予定記事のタイトルも入っています。

『父という余分なもの』

現役時代に知らなかったことは多かれど、一番悔やまれるのはいわゆるサル学である。
“京大の、独自性に溢れる世界的な成果”という評価はぼんくらな私の耳にも入っていた。
しかし、もう研究し尽くされた学問だと思い込んでいた。
だから定年後の暇な時間に関連本を読めばいいくらいに思っていた。
ところが、私の現役時代にも現在進行形で研究は進んでいた。
ボノボの集団に日本人研究者が出くわして「なんというセックス狂いのサルなんだ!」と驚いたのは1970年代だった(何の本で読んだか失念したが、思い出したら追記します)。

今や書店は生鮮品のみ、絶版もいっしょに眺められる図書館はいいね!

このサル学に出会ったのは、図書館の中である。
リタイヤする5年前までヘビースモーカだったこともあり、
図書館に足を踏み入れることは長らくなかった。
しかし55歳でタバコをすっぱりやめたおかげもあって、定年後は人並みに図書館に行った。
最初に行った時、とても新鮮な思いをしたことを忘れない。
ある分野に関して、もはや絶版になった書籍とそこそこの新刊が並んでいる。
書店では、絶版になった本は置いていない。ほとんどは新刊ばかり。
(今の出版社は経営が苦しくて新刊で出した直後に実質的に絶版になる本がほとんど)

なんだ、”家族の起源”は解明されているんじゃないか!

そして「類人猿学」と分類されている書棚に行くと、サル学創始者として当時の私でも名前を知っていた今西錦司氏の書籍から、最近の書籍までずらりと並んでいる。
そこで手に取ったのは、『父という余分なもの』(山際寿一著、1997年)だった。

いや~、面白かった!
タイトルに触発されて読み始めたのはもちろんだが、
なんと人類の家族がどうして生まれたかを解き明かしてくれていた。
そして人間以外のサル/類人猿には”父”という概念はないことを。
そして人類の”父”なるものは、母そして子に選ばれて初めて認められる存在であることを。

人類初期に家族をもたらした必然性はもはや様変わりしているが・・・

しかし現代において、”家族”が大きなストレス源になっている人は珍しくない。
(サル学が明らかにしてくれた)家族が必然的に生まれた当時の環境(脚注)とは、
現代はあまりに様変わりしている。
家族を前提とした人間の生活は、もはや不整合を起こしている・・・。
”家族”については、また稿を改めて書いてみたい・・・。

注)なぜ人類は家族という単位で暮らし、父という存在が生まれたのか。正確ではないかもしれないが、サル学が説くことを以下のように理解している。
ヒトが二足歩行して熱帯雨林からサバンナに出てきたとき、ヒトはとても弱い存在だった。
素手で戦っても強くない。足が速いわけでもない。
そのため、肉食獣に殺される確率が高かった。特に子どもが。
これに対応して生まれた戦略は多産だった。
ただし直立歩行もあって、一度の出産で多くの子どもを生み落とすとはできなかった。
このため、出産のピッチを短くする多産の仕組みが必要だった。
それを実現したのが、受胎から1年足らずで出産し、母親は産後すぐに再び妊娠できる状態になる形態だ。
1年もしないうちに、母は乳幼児から離れることもできる。
(類人猿の母が数年は子どもを抱いたままで生活するのとは大違いだという)
こうして人類初期の女性は、妊娠しているか乳幼児を抱えた状態を長い間繰り返すことになる。
そうした動くことも難しい乳幼児と母親が生存するための存在として発生したのが”父”だった。
利害得失を超えて、無償で特定の母子に食料をもたらす存在である。
そしてつまりは家族が生まれ、相互に協力しあう地域コミュニテイも成立する。
こうした社会の仕組みを必然たらしめたのは女性の生理だという。
ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、人類のそれぞれの独特の社会を必然的に作っている
根源の仕組みは女性の生理だという。
セックスを隠し、食を共にするという人類の特徴も、ここから生まれた。






※記事一覧(リンク付き)はこちら。 予定記事のタイトルも入っています。