2023/10/03

分からなかった、脊柱管狭窄症の「内視鏡手術」がこんなに進んでいたとは

この8月、腰部の脊柱管狭窄症とヘルニアの内視鏡手術を受けた。
その結果、アッケラカンと腰の痛みは消え、
間欠跛行(カンケツハコウ)という症状も消え去った。
手術の翌日から(恐る恐るだが)歩き始め、
間もなく2カ月が経過する今は、もう普通に歩ける。
執刀医には「そろそろテニスを始めたり、自転車の輪行も始めてよいよ」と言われ、
6年間不自由を感じていた散歩も気楽に楽しめるようになった。

入院は4泊5日

実は入院する直前に、ユニット型特養に入っている老母が体調を崩した。
迷った、迷った。
入院中に危篤になり親の死に目に会えないことになるかもしれない。
しかし治療しないと歩くことが極めて困難で悲惨な喪主になる。
入院した。
翌日に手術し、幸いなことに入院から5泊の予定が4泊で退院できた。

とその夕刻、母危篤の連絡が入った。
電車とタクシーを使って駆けつけると・・・、間に合った。
1時間後に、103歳の母は静かに息を引き取った。
会話はできないものの、握った手の強さでわずかに意思表示できた。
死亡診断書は”老衰”。大往生というやつだ。
というわけで、退院のその日から慌ただしい葬儀の仕切り役に相成った。
鉄人28号のような動きだったが、自分でも驚くほど身体は動いた。
結局、足先のシビレは残ったままだが、このほかの症状は消え去った。

もっと早く手術に踏み切ればよかった

こんなことなら、もっと早く手術に踏み切ればよかった。
6年前に発症してから、町医者1軒、市立大学附属の総合病院1軒、テレビで名医と紹介された町医者ダッシュ1軒、市立の整形外科専門病院1軒を巡った。
当初から手術をするなら内視鏡と思っていたが、
どの医者に聞いても、手術を受けて回復する過程を思い描くことはできなかった。
いよいよこれでは来年の冬はまったく歩けなくなると思った今年になるまで、
手術に踏み切ることはできなかった。

これが脊柱管の中を通る神経を圧迫していた。「これの10倍以上はとったよ」(執刀医)とのこと。

大病院の整形外科医の多くは「内視鏡手術のことは知りません」とのたまわる

50歳も過ぎると、多くの友人や同僚が腰痛を訴え始める。
自分も59歳のときに椎間板ヘルニアを患ったが、なんとかこれは自分で直した。
ところが63歳になって、寒くなってきた年の暮れ、
しばらく歩くと、腰の下から足裏にかけて背面側がしびれる。
立ち止まって前屈するとスッと治るが、しばらく歩くと再び同じ症状が。
「なんだこれは?!」と思いながら町の整形外科に行くと、
「それは脊柱管狭窄症の典型的な症状。間欠跛行という」と言われた。
以来6年、このまま歩くことができなくなったらとゾッとしながら、
上記のようにいくつかの病院を渡り歩いた。が、ラチは明かなかった。
私が訪ねた大病院では、いずれも
「ウチは内視鏡手術はやっていません」(従来型の切開手術だけだという意味)。
従来型と内視鏡手術の得失点も教えてくれない。
「内視鏡手術のことは知りません」と言い切る。
どうやら、ほとんどの大病院は内視鏡手術はやらず、
内視鏡手術をするのは比較的新しい小中規模の病院のようだ。
それにしても医者たるものが「知りません」とは・・・。

外科医は内視鏡手術を認めない??

ちなみに、私は別の部位でも内視鏡手術を受けたことがある。
大腸癌の内視鏡手術だ。
癌が発見され、内視鏡検査の画像からはかなり進行していると判断された。
そのため、従来型の開腹手術で腸をバッサリ切断除去することになった。
担当医は消化器系の外科部門の医師だった。
おそらく癌細胞が腸壁を超えてリンパにまで達しているので、
リンパもごっそり除去するとのことだった。
ところが手術予定の1週間前に電話がかかってきた。
外科部門と内科部門の手術予定患者に対するカンファレンスで、
開腹手術ではなく内視鏡手術に切り替えることになったと言う。
そこで消化器系の内科部門の医師から
リンパにまで達しているという検査結果が出ていないので、
まずは内視鏡で除去すべきだと発言があり、それが採用されたという。

幸いなことに、内視鏡手術を受け、
術後に癌がリンパにまで達しているかを調べたところ、
大腸内の粘膜層に留まっていたという結果だった。
大手術を覚悟したが、3日程度の入院ですぐに社会復帰することができた。
ラッキーな体験だった。

これに比べて、整形外科の世界では、
すでに述べたように従来型と内視鏡型の医師の間に深い溝がある。
大病院の整形外科医に大腸癌での経験を話し、
整形外科でも類似の体制が取れないか聞いたことがある。
つまり従来型と内視鏡型と担当セクションが違ってもよいけれど、
病院の中でどちらの方法がよいか議論する場を設けて、
得失点を検討してベッターな方法を採るような体制はとれないのかと聞いた。
「そういう時代が整形外科にもやってくる可能性はあるかもしれない。
でも、少なくともそれまでに数十年かかる」という答えだった。
残念というほかない。
整形外科にはもっと言いたいことがあるが、このくらいにしておこう。

私が内視鏡手術を受けたのは、品川駅にほど近い
稲波脊椎・関節病院」である。
何人もの執刀医がそろい、システマティックに内視鏡手術をこなしている。







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2023/10/02

プレスリリース作成のご用命はこちらへ! 初回お試しは半額です


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2023/09/03

ロシアのウクライナ侵攻と、日本の満州侵攻

ウクライナに侵攻したロシアに対する批判が続いているが、戦火はやまない。
この出来事に対して、
「日本も他国から侵攻されるかもしれない。ウクライナのように反攻できるのだろうか」
という思いを、どうやら多くの日本人が抱いたらしい。
その結果、防衛費の倍増、敵基地攻撃能力の保持などの議論に進んだ。
ひと頃から考えれば驚くべき変化だ。
でも、これで国防は一安心と感じた人は少ないだろう。
今後どうなっていくのか、考えることは多々ある。
私が感じたのは、言葉の通じない国にも逃げるウクライナ人のたくましさだ。
万一日本が侵攻されたとき、
日本語以外は使えない日本人も海外に逃れることができるだろうか。

日本人もロシアと同様の加害者だった


しかしここでは、ロシアと日本の類似性を考えたい。
満州に対する日本の侵攻は、
今回のロシアによるウクライナ侵攻と類似している。
つまり日本は、ロシアと同様の加害者側だったことがあるのだ。
このことに考えが及んだ人は、そう多くはないように思う。

そしてウクライナの市民から見れば
プーチン政権周辺だけでなく、
一般のロシア国民も許すことのできない人たちになっている。
侵攻の命令を下したのはプーチンだったにせよ、
ロシアの軍人が自国に攻め込んできてひどいふるまいをしたのだ。
たとえば2023年6月27日のNHKあさイチ

侵略した国の国民を許すことはできない・・・


上記NHK番組によると、ロシア人は、軍人以外に普通に暮らす人々も、
少なくとも3世代が過ぎるほどの長期に渡ってウクライナの人びとから恨まれ続けることになる。
それは、中国や朝鮮、東南アジアから見れば、
第2次大戦後80年が経過しようとも
自国に侵攻した日本の国民は許しがたい存在なのだということを思い起こさせる。
ウクライナとロシアのことを思うとき、
日本という国も加害者であったことを思い続けよう。





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2023/07/30

「非正規労働者」という言葉を使い続けるなんて!

このブログを始めた理由のひとつは、
みんなが見えない振りをしていることが多くて、
これはやはり(届く範囲は置いておいても)発信しておかないと
悔やむことになるかもしれないということ。

その具体的な代表例は「非正規労働者」という言い方だ。
どこから説明すべきなのか・・・。
こんな言葉を使うべきではないと誰でも分かるはずなのに、
差別用語でしょう。
それなのに、政府も行政もマスコミも、
あまりにも無感覚に使い続けています。音頭をとっているかのように。

親が「非正規労働者」と呼ばれていると気付いた子どもは、どんな気持ちになるのか。

Change.orgはちょっと暴力的だなぁと思うこともあるのですが、
この話題がないのは変だと思い、投稿した。
でもこれだけだと声は集まらない。
そこでビラを作ってみた。

ただ、ビラを配るのはなかなか難しい。
学生運動も経験していないからビラ配りに慣れていない。
5枚くらい配ったところで止まっていました・・・。
それにしても・・・。


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2023/07/14

挨拶の意味?! ボス猿登場の条件!

「きちんと挨拶しましょう」---昔も今も、子どもたちはこう教わる。
「私はきちんとした人です。敵ではありません」というシグナルを相手に示す。

ただ、挨拶はそういう意味だけではないことを
京都大学が拓いた、いわゆるサル学が教えてくれた。
どちらが上位でどちらが下位かを、いちいち喧嘩せずに確認する手段でもあるのだと。
確かに、出会うたびに血みどろになっていてはかなわない。
合理的な方法だ。
特に競争が激しいチンパンジーの世界では、いろんな挨拶があるらしい。
(姿勢を低くして手の甲にキスする仕草さえあるらしい)

頭を下げない挨拶

そこで気付く。あぁ、人間の挨拶にもそれがある!
子どもたちが教わる挨拶はおおむね頭を下げる。
ところが頭を引き上げる仕草で挨拶する人間がいるじゃないか。
たとえば”社長”である。
たとえば往年の映画「社長シリーズ」では、
なにかとゴマをする役の、三木のり平がぺこぺこすると、
社長である森繁久彌は「おぅ」という感じで顎を引くような挨拶を返す。
どちらが偉いかということを確認する儀式が挨拶だったのだ。

面白くなる。会社員時代を思い出す。
若い頃はどちらの案が合理的かを喧々諤々議論し、でも頭は低く”いい奴”だったのに、
50歳前後あたりだろうか、離れたセクションでけっこう肩書が付くころから、
「どうしてあいつはあんなになっちゃったんだ??」と思う輩が出てくる。

人と目を合わせようとしない。なんだか偉そうに挨拶する。
仕事の話をしに行っても「それいいね、やろう!」というテンポにならず、
ややこしい話になる。場合によっては、嘘をつくようになる。
・・・どうやら、自分のボスの意に沿わないことは一切しない人物になっている。
それが、当然のことと思っているらしい。
「・・・おかしいなぁ、人格が変わっちゃった」、と思わせる。

こうした変貌を遂げる人物は珍しくないのだと思う。
要は定年が見えて来る年齢になり、たとえば役員で残ることを目指して、
ボスに気に入られようとゴマをする、あるいは小ボス間の勢力争いに参加する。
社長シリーズでいけば、 若き硬骨漢だった小林桂樹が、
あるときからゴマすり三木のり平に変貌するようなものである。

ボス猿は自然の中では生まれない

でも歳をとってから変貌するのはなぜか。
先のコースが見えてきて、
昇進するために行動する以外の選択がなくなったと思わせるころからの変貌だ。
第一に優先するのは「ボスに気に入られる」ことになる。
若い頃の合理性追求の姿勢は消えてなくなる。
要はボスの配下に身を置いたわけだ。

ここで再び、サル学は面白い知見を与えてくれる。
ボス猿という言い方は確かに初期のサル学で使っていたようだ。
しかし、もはやボス猿という言葉は死語なのだという。
当初は幸島などの日本猿を餌付けし、ボスのいる集団を観測するところからサル学は始まった。しかし間もなく、日本中、サルが生息するところに出向いて観測するようになる。
そして伊沢紘生氏が餌付けされていない日本猿を長年観察し、
自然界にボス猿はいないことを
1982年刊行の著作『ニホンザルの生態』で明らかにした。
実は餌付けされ、餌を獲得するために激烈な競争がある場合にはボス猿に見える存在が生まれるが、餌の獲得にそれほど苦労しない自然界では、ボス猿はいないという(この発見過程は、『サル学の現在』(立花隆著、1996年発行)のpp.111-142参照。
(注)サル学ではもはやボス猿という言葉は使っていないが、
一番力の強いオス猿をアルファ・メイルと呼んだりしている。

これで、中年になるとゴマすりに変貌する輩が出てくるわけが解けた!
先のポストが見えてきて、そこを目指すしか選択肢がないように見える状態、
ここではボスを喜ばせれば”エサ”をもらえるが、
ボスに逆らえば権力集団から見放されることになる。
つまりは餌付けされた状態になり、ボスと子分の関係が初めて生まれるわけだ。
若い頃は自然の中で自由に合理性を追求していた輩も、
こうして餌付けされ、ボス集団にからめとられてしまうわけだ。
何も会社に限った話ではない。
たとえば奈良での演説中に狙撃されて亡くなった日本の首相と彼を取り巻く政治家達。
もちろんヤクザの世界が成り立つのもこういうわけだろう。
いずれも餌付けされてしまった集団だ。

さらに、定年延長者には挨拶できない若き役員たちも・・・

ここまで書いたらもう少し書いてしまいたくなった。
昨今は定年が65歳とか70歳まで延長されることになってきた。
ただし役職はなくなって給与は大幅に減る。
そしてこうして会社に残った人が、
上記のような餌付け環境を生き抜いて役員ポストを勝ち取ったような年下の上役と出会ったらどういうことになるか。
格下に頭を下げる挨拶はしなくなった若き役員が、
かつての上司だったりする定年延長者に会ったとき、
頭を引き上げる挨拶をする人もいるだろう。頭を低くした挨拶ができる人もいるだろう。
でも中には、どちらの挨拶も苦しくて、気付かない振りをして通り過ぎる人がいる。
目を泳がして無視されるー--年長者側は気持ちがよいわけはない。
やはり、定年延長に乗るのは、面白くなさそうだ。

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2023/07/04

AIに「仕事」「家族」について問いかけてみた

はやりの「生成AI」に、「仕事」および「家族」について問いかけてみた。
けっこう答えてくれる。じっと自分ひとりで考えているよりは、論点を広げてくれる気はする。

ヒトの仕事がなくなったとき、持続可能で健全な社会を確保する方策は


問い(以下略)ーヒトにとって、仕事とは何か。仕事をする必要がなくなった人類の社会はどうなるのだろうか。

AI(以下略)●仕事とは、人間が生活する上で必要な物資やサービスを提供するための手段であり、自己実現や社会貢献の場でもあります。現代社会では、生活を維持し自己実現を図るために、大抵の人々にとって仕事は必要不可欠な要素となっています。

人類が仕事をすることをやめた場合、社会は大きく変化することになるでしょう。自動化やロボット技術が発展している今、人々が仕事をしなくても暮らしていくことが可能になるかもしれません。そうなると、私たちはより充実した生活を送るために自己啓発や趣味、芸術活動などに時間を費やすことができるようになるかもしれません。

ただし、社会が完全に仕事をしなくても暮らせるようになれば、一部の人々は怠惰になったり、価値観や目的意識を失う可能性もあります。また、社会経済的な問題や貧困などの問題が解決されるわけではありません。仕事がなくなる変化が訪れた場合でも、社会が持続可能でかつ健全であることを確保するために、新たな社会システムの構築が必要となるでしょう。

自己実現をサポートする社会システムなんて、あり得るのだろうか。

自己実現をサポートする社会システムは、必ずしも完全な形で存在しないかもしれませんが、現在の社会では、教育やキャリア支援などの手段が存在しており、個人が自己実現に向けた取り組みをすることができる環境が整っています。また、福利厚生や労働時間の短縮など、労働者がより良い生活を送るための制度が整備されている国もあります。ただし、社会システムが完全ではないため、個々人が自己実現に向けた努力を積極的に行う必要があると考えられます。

家族の崩壊は、新たな多様化をもたらす?


ありがとう。次に、「家族」はどうだろうか。ヒトが類人猿から派生し独自の発展を遂げるうえで、利害関係を超える関係を結ぶ家族は大きく寄与した。しかし今や、家族はストレスを生み、葛藤に苦しむ人が多い。
また家族が集まった親族のコミュニティや、近隣の地域コミュニティはほとんど崩壊している今、家族が崩壊しないわけはないのではないか。

家族は、人間にとって重要な社会的結合の一つであり、心理的な安定や生活の支えとなるものです。しかしながら、現在の社会においては、家族も多様化・高度化が進んでおり、それに伴い家族間のストレスや葛藤が生じることもあります。

また、地域コミュニティの崩壊や社会の急速な変化が、家族の関係にも影響を与えることがあります。例えば、社会や経済の変化により、家族の生活環境や経済的状況が大きく変わったり、家族の機能や役割が変化したりすることがあります。これにより、家族内のコミュニケーションがうまくいかなくなることもあるかもしれません。

ただし、家族が完全に崩壊するわけではありません。家族によって提供される支えや愛情は、依然として人間にとって不可欠なものであり、家族の関係を再構築するための支援が必要な場合には、専門家や支援機関のサポートが利用できることもあります。また、近隣や地域の社会資源を活用することによって、家族とのコミュニケーションを促進することもできます。

そうだねぇ。「家族が完全に崩壊するわけではない」というのは真実でしょう。でもそれは、遺伝子レベルにも組み込まれているために、家族が崩壊したときにもたらされるマイナス効果にヒトは耐えられないという意味ではないのか。家族崩壊の道に進んでいるが人類は家族なしに生き延びられる動物ではないから、すなわち人類は滅びるという文脈になるのではないか。

確かに、家族というのは人間にとってとても重要な存在です。遺伝子レベルでの家族関係や愛着関係は、精神的な健康や社会的支援に大きく影響を与えています。しかし、家族崩壊というのは単純に家族が存在しなくなることではなく、家族構造が多様化することを意味している場合もあります。例えば、パートナーシップや友人関係を家族として扱うような家族モデルが、現代社会において広がりつつあります。

ただし、家族の崩壊が人類の滅亡につながるかどうかは、複雑な問題です。人類の歴史を振り返ってみると、家族関係は多様であり、地域や文化に応じた様々な形態が存在してきました。また、人類は社会的生き物であり、文化的な進化や技術的な進歩によってさまざまな問題に対処することができます。そのため、家族という存在がなくなったとしても、人類が滅亡するわけではないでしょう。

イヤイヤ難しい問題ですがありがとう。

どういたしまして。もし他に何かお力になることがあれば、遠慮なくお聞きください
===============

う~ん、楽しく議論が噛み合うということにはならないですね・・・。なにが足りないんだろう。でもそれくらいでよいでしょ。


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『父という余分なもの』

現役時代に知らなかったことは多かれど、一番悔やまれるのはいわゆるサル学である。
“京大の、独自性に溢れる世界的な成果”という評価はぼんくらな私の耳にも入っていた。
しかし、もう研究し尽くされた学問だと思い込んでいた。
だから定年後の暇な時間に関連本を読めばいいくらいに思っていた。
ところが、私の現役時代にも現在進行形で研究は進んでいた。
ボノボの集団に日本人研究者が出くわして「なんというセックス狂いのサルなんだ!」と驚いたのは1970年代だった(何の本で読んだか失念したが、思い出したら追記します)。

今や書店は生鮮品のみ、絶版もいっしょに眺められる図書館はいいね!

このサル学に出会ったのは、図書館の中である。
リタイヤする5年前までヘビースモーカだったこともあり、
図書館に足を踏み入れることは長らくなかった。
しかし55歳でタバコをすっぱりやめたおかげもあって、定年後は人並みに図書館に行った。
最初に行った時、とても新鮮な思いをしたことを忘れない。
ある分野に関して、もはや絶版になった書籍とそこそこの新刊が並んでいる。
書店では、絶版になった本は置いていない。ほとんどは新刊ばかり。
(今の出版社は経営が苦しくて新刊で出した直後に実質的に絶版になる本がほとんど)

なんだ、”家族の起源”は解明されているんじゃないか!

そして「類人猿学」と分類されている書棚に行くと、サル学創始者として当時の私でも名前を知っていた今西錦司氏の書籍から、最近の書籍までずらりと並んでいる。
そこで手に取ったのは、『父という余分なもの』(山際寿一著、1997年)だった。

いや~、面白かった!
タイトルに触発されて読み始めたのはもちろんだが、
なんと人類の家族がどうして生まれたかを解き明かしてくれていた。
そして人間以外のサル/類人猿には”父”という概念はないことを。
そして人類の”父”なるものは、母そして子に選ばれて初めて認められる存在であることを。

人類初期に家族をもたらした必然性はもはや様変わりしているが・・・

しかし現代において、”家族”が大きなストレス源になっている人は珍しくない。
(サル学が明らかにしてくれた)家族が必然的に生まれた当時の環境(脚注)とは、
現代はあまりに様変わりしている。
家族を前提とした人間の生活は、もはや不整合を起こしている・・・。
”家族”については、また稿を改めて書いてみたい・・・。

注)なぜ人類は家族という単位で暮らし、父という存在が生まれたのか。正確ではないかもしれないが、サル学が説くことを以下のように理解している。
ヒトが二足歩行して熱帯雨林からサバンナに出てきたとき、ヒトはとても弱い存在だった。
素手で戦っても強くない。足が速いわけでもない。
そのため、肉食獣に殺される確率が高かった。特に子どもが。
これに対応して生まれた戦略は多産だった。
ただし直立歩行もあって、一度の出産で多くの子どもを生み落とすとはできなかった。
このため、出産のピッチを短くする多産の仕組みが必要だった。
それを実現したのが、受胎から1年足らずで出産し、母親は産後すぐに再び妊娠できる状態になる形態だ。
1年もしないうちに、母は乳幼児から離れることもできる。
(類人猿の母が数年は子どもを抱いたままで生活するのとは大違いだという)
こうして人類初期の女性は、妊娠しているか乳幼児を抱えた状態を長い間繰り返すことになる。
そうした動くことも難しい乳幼児と母親が生存するための存在として発生したのが”父”だった。
利害得失を超えて、無償で特定の母子に食料をもたらす存在である。
そしてつまりは家族が生まれ、相互に協力しあう地域コミュニテイも成立する。
こうした社会の仕組みを必然たらしめたのは女性の生理だという。
ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、人類のそれぞれの独特の社会を必然的に作っている
根源の仕組みは女性の生理だという。
セックスを隠し、食を共にするという人類の特徴も、ここから生まれた。






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2023/06/18

”ミラーニューロン”のノーベル賞はいつ?<第1稿>

仕事の忙しさにかまけて気が付かないことが!


「仕事の忙しさにかまけて、世の中で何が起きているか目に入っていなかった!」
と後悔することがある。


その一つが”ミラーニューロン”だ。
ミラーニューロンはイタリアはパルマ大学のジャコモ・リッツォラッティ氏らによって、
1996年に発見されたという。
ところが私が気が付いたのは、『ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』 (マルコ イアコボーニ著, 塩原通緒翻訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
という本を読んだ2010年末のことである(脚注)。
15年も遅れて気が付いたことになる。
学会に登場したばかりの1996年に気付くことは難しかったのかもしれないが、
この1996年に私は40歳代になったばかり、
最も忙しく働いていた時期であることは間違いない。
通勤電車の中でも仕事をしていた・・・。
仕事に関係すること以外の出来事に関して、アンテナを張っていなかった。
一方、この本を読んだ時期の私はいわゆる定年間近・確かに時間的に余裕があった。
リタイア後は、こうした「見逃していたもの」を発見するのも大きな楽しみになる。

他者の意図を感知するメカニズム


ミラーニューロンは様々な働きをするようだが、私にとって最も興味深いのは、
我々が他者の意図をどのように察知するか、そのメカニズムを説明してくれたことである。
ミラーニューロンは物まね細胞とも呼ばれるが、
ミラーニューロンのおかげで人は他者の動きを我が身の動きとして”脳内で模倣”し、
その我が身の動きの感覚を通して相手の意図を理解するのだという。
右手を上げるという動きをロボットが行ってもその意図を察することはできない。
しかし目前に立つ人が右手を上げようとするその瞬間に、
殴りかかろうとしているのか、握手しようとしているのか、賛成の挙手をしようとしているのか、網棚の荷物をとりにいくのか、といった動きの意図を理解する。
確かにそのために、我が身中の筋肉の反応を脳内で模倣しているのを感じることができる。

対戦型スポーツの楽しさ=相手の意図を察知して動く


私は幼い頃からスポーツが大好きだった。しかし勝つことは下手だった。
世の中ではスポーツをすることイコール強くなることを求められる。
昨今の運動部などでは厳しい指導の行き過ぎは抑えられるようになったが、
褒めて伸ばすという手法も試合で勝つため、強くなるための指導である。
勝って嬉し涙を流す選手をほめたたえる。
団体スポーツでは「国を背負って戦う」ような姿勢が称えられる。
でも、スポーツ、ゲーム、プレイ・・・”遊び”に通じるはずだ。
では遊びやスポーツはなぜ楽しいのか。
勝つことが苦手だからこんなことを考えるのかもしれないが、
ずっと気になっていた。
この疑問に、ミラーニューロンの説明が応えてくれた。
詳しくは稿を改めるが、結論だけを書くと、対戦型スポーツは相互に相手の意図を察知しながら反応するのが楽しいに違いない。楽しい会話と同じ構造。
複雑なフェイントの掛け合いは相互のコミュニケーションを生み、
それが楽しいに違いない。
これをテニスで試した(詳しくは別稿で)。

ノーベル賞をとらないかなぁ


ただしこのミラーニューロン、世紀の発見と称賛されたようだが、
残念ながらその後の研究の動きが聞こえてこない。
懐疑的な見解もあるようだ。
私的にはノーベル賞を受賞してくれないかなぁと思う。
上記のようなスポーツの楽しさを共有するには、くどくど説明しても足りないことが多い。
ミラーニューロンのメカニズムが一般的な知識として広がれば、
「ニッポン、ニッポン!」と連呼してばかりのオリンピックの中継放送も
大きく変わるに違いないのだが。
(初稿は2023年6月18日)

注)発見者ご本人の書作は『ミラーニューロン』(ジャコモ ・リゾラッティ (著), コラド・シニガリア (著), 茂木健一郎 (監修, 読み手), 柴田裕之 (翻訳)、‎ 紀伊國屋書店発行)である。ただこの本は、ちょっと読みにくかった。翻訳と監修が粗い・・・。編集者のせいかな・・・

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2023/06/16

インタビュー記事作成のご用命はこちらへ!

プレスリリース作成請負に加えて、インタビュー記事の作成も請け負うことにしました。
ご用命の方は、ココナラ以下のページから

基本的には、インタビューを行った録音データをいただいて、
それを読者に読んでもらう”記事”に仕立て上げます。
想定するユーザーはプレスリリースの依頼をいただくような起業中の方です。
インタビュー自体は、熱い思いをお持ちのご自身が行ってください。
その後の記事は”職人”にお任せください。

想定しているインタビューの種類は、
あなたのサービス/商品のユーザー、新規採用のための社員へのインタビューなどです。

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